Paul Hindemith / Sonata for Alto Horn or Alto Saxophone
ヒンデミットのソナタといえば、サクソフォンでもよく演奏される『ヴィオラソナタ 作品11-4 (1919)』が思い浮かぶ方も多くいらっしゃるのではないでしょうか。感情表現的というよりも音による運動表現や構成、あるいは音楽としての機能美を体現した作品が多いヒンデミットですが、このヴィオラソナタに関しては後期ロマン派的な表情も見受けられ、サクソフォンでの演奏も比較的違和感なくできるように感じます。一方で、今回演奏する『アルトホルンソナタ (1943)』は、前述のヴィオラソナタやサクソフォンのために書かれた作品に多く見られる情熱的な表現とは真逆のアプローチが必要な作品だと感じています。
第1楽章は、ホルンが自然倍音に準じた完全4度、5度を中心とした旋律を奏でているところに、ピアノのデリケートで独自性のある響きがブレンドされます。4分の6拍子による長いフレーズが、古(いにしえ)の余裕を彷彿とさせます。
第2楽章には、印象的な同音反復のリズム型が両楽器によって繰り返されます。一説によるとこれはモールス信号による暗号で、日本語に訳すと「誰もすべてを知ることはできない」という意味なのだとか…。
第3楽章は、8分の8拍子という珍しい拍子と、sehr langsam(とても遅く)という指示があります。静かに語りかけるような旋律が特徴的な楽章です。
そして特筆すべきは、第4楽章の冒頭で朗読されるヒンデミット自身の詩 『ポスト・ホ ルン』です。本来はホルン奏者とピアニストが舞台上で実際に朗読するものですが、今回は割愛し内容を以下に記します。
ホルン奏者 :
あわただしく生きる私たちに、かの時代、いにしえの時代から
音となって訪れてくるのがホルンの響きではないだろうか
(とうに萎れた花の香りのように、ボロボロになったタペストリーの色あせた皺のように、古い黄ばんだ書物のもろい真のように)。
かの時代、急ぐと言えば馬の駆け足のことであり、
電線に閉じ込められた稲妻によって走ることではなかった時代。
かの時代、人が生きて、そして学ぶためには、
ぎっしり印刷された文字を読むだけでなく、山野を駆け巡った時代。
かの時代から音となって訪れてくるのがホルンの響きではないか。
その豊穫の角笛が、私たちに、
青ざめた憧れ、物悲しい望みを呼び起こす。
ピアニスト :
古いものは、過ぎ去ったものであるがゆえに良いのではないし、
新しいものは、私たちと共にあるがゆえに優れているのでもない。
そして人が味わらことができる幸福は、
自分で担うことができ、理解することができる範囲の幸福に限られる。
あわただしさ、騒音、混乱の中で、変わることのないもの、静けさ、
意味と形を見つけ出し呼び戻す。そして改めて大切に守っていく。 それこそが君の務めだ。
アルト・ホルンやアルト・サクソフォンの 「アルト」という語は、ソプラノ、アルト、テノール、バス などの楽器の音域の高低を示す「アルト」から来ていますが、ドイツ語の「アルト(alt) 」には、「古い、年老いた、昔の」といった意味もあります。
また、第4楽章で使われているマーラーの『交響曲第3番』に登場するポスト・ホルン (郵便ホルン)の旋律のパロディや、それとは無関係のように終始忙しく動き回るピアノの役割からも、音楽が詩の内容を踏まえていることが伺えます。
作曲者がアルト・ホルンとピアノそれぞれに投影した「古」と「新」。「余計なことをしない」ことで得られるであろう、楽器と作品の「素材の味」のようなものを私自身も楽しみ、伝えられたらいいなと思っています。
参考文献:ヒンデミット アルト・ホルンとピアノのためのソナタ
ヒンデミット作曲/福川伸陽、平野公崇 解説/音楽之友社
リサイタルチケットご予約☟
コメントを残す